僕のいるべき場所は何処……?
辻里弓弦は人嫌いの少年だった。彼が興味を持つのは動物、それも猫だけだった。ある日、一匹の子猫に出会って彼の運命は大きく変わっていく。
加筆修正+書き下ろしSS『猫が見る夢は夢なりとて。』あり。いつものように幼馴染みと彼は遊んでいた。それは当たり前の風景で、一度も疑問に思ったこともない。
彼は友だちと楽しく、楽しく燥(はしゃ)いでいた。いつでも時間を忘れるほどに。当に子供だったから実に無邪気そのものだった。
そう――あの日が来るまでは。
ちりん。
ふと耳元で鈴が鳴る。
ちりん。
もう一度鳴った。
音の方に振り向けば、そこには彼と同じ年頃と思われる少女が立っていた。とても豪奢な着物を着ており、明らかにこの場所には似つかわしくない。けれど少年にはとても綺麗に映った。
彼女の手にはたくさんの鈴が連なっている棒のようなものを持っている。鈴の音はきっとそこから鳴ったのだろう。
暫く眺めていると彼女は優しく微笑み、おいでおいでをして彼を待っている。
自分が少女に呼ばれていることを理解し、続いて彼女の元に行くべきだと思った。
だから彼は今いるところがどんな場所かなんて考えないで走り出し、そうして次の瞬間、強い衝撃を感じて彼の体は宙に舞う。
くるくるくる。
景色が不思議に変わっていく。目に見える世界が天地左右が可笑しなことになっているのは分かったが、覚えているのはそこまで。
そのまま彼の意識は飛んで行き、最後に暗転した。
‡ ‡ ‡
次に気が付けば知らない天井が見えた。どうやら病院らしいと認識する。
なぜなら白衣を着た医師や看護師が慌ただしくしている様子が窺えたからだ。
矢継ぎ早に少年に何かを話しかけてくるが、彼はどうにも反応を返せないでいた。それで心配になったのだろう、急ぎ誰かを呼びに行き、連れて来る。
来たのは女性と少女。酷く慌てた様子なのは見て取れた。
「ねえ、私たちが分かる? お前ったら突然、車の前に飛び出したって!」
女性が何かを言っていた。言葉なのは理解する。けれどその話している意味が理(わ)解(か)らない。
「……誰だっけ」
どうにも周囲の人間たちに何かを感じることが出来なくていつの間にかそう呟いていた。
ああ、あの子の傍に行けなかったんだね。
それだけは分かり、それが為せなかったことに何処か落胆を覚えた。
「何を言ってるの? 心配したのよ! 頭を打ったからかしら?!」
恐らく少年を心配しているらしい女性がおろおろしている。彼より少し年齢の低い少女もやはり戸惑った表情をしていた。
「お兄ちゃん? 大丈夫?」
おにいちゃん?
ああ、そうだ、そうだった。これは僕の家族。かぞく。かぞく。
うん、おかあさんといもうとだ。
でも何故か泣いている。
何でだろう?
一生懸命考えてみるもどうしても分からない、理解できない。
きっと本当は僕も泣かないといけないんだ。
うんうん、助かって良かったねと。
そう言えばこの状態は変わるはずだ。
それなのに彼の口からは終ぞその言葉が出ることはなかった。
その日から少年の世界は一変した――まるで全てが反転したように。いつからか彼にいる場所はなかった。いや、その表現はきっと正確ではない。
ああ、もしかしたら最初からそんなものは無かったのかもしれない。
そうだ、そう、きっとそうなんだろう。
でなくてはこの言いようのない虚無感の理由が付かない。
しかし当然だが、彼は一人ではない。家族、はちゃんとある。
所謂、一般的な家族で、彼が生まれたときからそれはずっと変わらないままだ。
恐らく余所様から見ても本当に普通の家庭に映るだろう。一見すれば少年に足りないものなど一切ないのだから。
だけれど彼からすれば一緒にいる人たちを家族、と呼ぶのは何処か違和感があった。
家族たちと確かに血は繋がっていること自体は間違いないし、理解もしている。
よく世間は血の縁は特別なものだとは言うが、実際にはそれが何だというのだろう。彼は家族との絆に特別だと感じたことがないのだ。
だが、そのことに寂しさを覚えたことは不思議と無く、同時にただ何かを求めていることは理解していた。
それが何かが分からない。
ただ漠然と自分が彷徨っているとは感じていた。
何処を? もしくはいつ?
それすら把握できないまま、ただ此処にいることしか出来ない。
どうにも歯痒いのにどうすればよいのか、出口のない問いにずっと悩み続けていた。
毎回、考えても徒労に終わるだけだが、それでも止めることは出来ないまま、今に至っている。
少なくとも彼――辻里(つじさと)弓弦(ゆづる)にとって世界は幼い頃から酷く孤独で疎外感のあるものでしかなかった。
故に幼い頃から弓弦は一人でいることが多く、それこそ友達と呼べるものも皆無に等しい。所属するクラスの中で彼を覚えている者がいるかどうかも分からないが。
そのくらい人とは関わらないし、そうなれば向こうも当然そうなる。
つまるところ、誰かと関わりを持つと言うことに興味がない、それが結論だった。
今日も今日とて何もすることがないため、自分の部屋にただ何となくいる。此処に特にいたいわけでもないのだが、他にいる場所もない。ただそれだけだった。
「弓弦? いるの?」
ふと彼を呼んでいることに気が付く。母が階下から呼んでいるのだろう、少し、いや大分声が遠かった。
いつもこうだ。彼女は息子のためにわざわざ昇ってなどは来ない。恐らく呼び掛ける相手に聞こえていなくてもいいのだ。
「……いますよ、お母さん」
そう端的にそれだけの返事をし、それ以上は何も答えない。これが馬鹿馬鹿しい儀式のような日常の会話のひとつではあった。
「……御飯よ」
ある意味残念そうな、どうでもいいような口ぶりもいつものことだ。恐らくそれはお互い様なのだから。
階下に降りれば、既に家族は揃っていた。いや、揃ったと言っても仕事中の父はまだのようだ。
そして四人席の食卓には弓弦の食事の席は確かにいつものようにあった。
並んでいる食器やおかずに家族との差異があるわけではないし、端から見ればごく普通の食卓ではある。
だが、少年の居場所はなかった。
母と妹は弓弦に話しかけることもなく、弓弦もまた話しかけることはしない。
常に母と妹が話す会話の中に彼はおらず、また弓弦の中にも彼女らがいないからだ。
気が付けばそれが当たり前の世界。そうなることに不思議と違和感を持ったこともない。
もしも此処に父がいようとも同じこと。
互いが互いに触れたくはない、触れたくもない。
それが彼らと自分の答えだった。
この違和感にはっきりと理解したのは恐らく弓弦が幼い頃に事故に遭った時からだ。
原因は彼が急に道路へと飛び出したためとされており、そこは確かに事実だった。実際、そのせいで結構な期間入院もしていたので、幼かった弓弦でもはっきり覚えている。
その際、元々夢みがちと言われていた少年だったからかなりきつく注意された。彼が時折話していた不思議な話をすることも強く禁じられたのもこの頃である。当時、弓弦としては言い付けはとても不満であり、従わず思うままに彼は行動した。
何故かは知らないが、同時に家族がとても鬱陶しいと感じるようになり、彼らに構われることを拒否するようになったのだ。
家族も家族で弓弦のことを全く理解できないものだから、結果、家族との埋めようのない距離が出来たのである。
そんな状態で円滑な意思疎通が出来るわけもなく、今日の状態が続いていた。
よって今彼は家の中で独りぼっちだと言えるが、自分からはじめたことであるし、それを今更修復しようとも思わない。
弓弦は静かに食事のみを終え、いつものように一言も誰かと言葉を交わすこともないまま、再び自分の部屋へと向かう。
そうして部屋へ戻ると、いつも大きなため息を一つ吐く。ほっとするのだ。誰もいないこの空間が何よりも心地いい。
ふと小さい頃から聞こえてくる音と声がする。
ちりん、ちりん。
とおいあなたはいまいずこ。
まちてまちまち、きょうもまつ。
いずこにありや、いずこにありや。
ああ、あいたい、あいたい。
ちりん、ちりん。
鈴の音に合わせるかのように可愛らしい声で歌うその声は何処か懐かしくてひどく安心する。
ずっと誰かを探しているのか、待っているのか、歌詞からしたらそんな感じの歌だと弓弦は思う。
誰を待っているのだろう。誰に逢いたいのだろう。
分かるのはいつも同じ声の主であるということだけ。
尤もこの歌を知っているのは弓弦のみ。そもそも彼しか聞いたことがないものだ。
誰にも聞こえない歌、詩、唄。
不思議ではあるが見も知らぬ相手の声は勿論、弓弦にしか聞こえない。何度か母や父、それに妹にも尋ねたがひどく不気味がられるだけで終わった。
あの愛らしい歌声を聞く度に弓弦は幸せな気持ちになるのに誰もそれを分かるものはいなかった。
もう期待はすまい、そう思い、会話はますますなくなったが、苦でもない。
それよりももっと真摯な願いが生まれたから。
逢ってみたい。
それがいつの間にか弓弦にとって唯一の希望となっていた。